思い通りにはならない。

やった通りにしかならない。

今朝、公園で小指を蚊に刺された。夜になってから妙に痒さが増してきて、なぜ今頃になって痒くなってきたのだろうかと疑問に思っていたのだけど実際はお昼頃から痒かったのだ。その時は意識をしていなかっただけで、そして今も「そういえば今朝小指を蚊に刺されたな」と考えながら小指をさすることがなければきっと痒くはならなかったのかもしれない。しかし実際に刺されていたことは事実である、そういった認識が自身の中で「揺るぎのない思考」として在る限りは、「蚊に刺されたのだから痒いに違いない」と夜になるまで指が痒くならないことに何故だかおかしさを感じて無理矢理指を掻いていたら、小指が痒くなってきたのだ。僕は「ああ、良かった。」と言わんばかりのドヤ顔の表情を浮かべていたかもしれない。
ただ、本当は蚊に刺されていなかったのかもしれない。蚊は指に留まっていたが、指を刺していなかったかもしれない。すると何故僕の指は痒いのだろうかと疑問に思うかもしれないが、蕁麻疹だとか久しぶりに辛い物を食べたからだろうとかと理由を探すのかもしれない。問題なのは僕の小指が痒いことなのか、それとも痒いと感じているその神経を疑わなければならないことか、はたまたこれらの理由を探し出す目的が本当にあるのかどうなのか、痒いということは氣持ちの惡いことだと決めつけて良いものなのか、見当がつかないことなのだと思う。
 リルケの手紙にもあるように、ありとあらゆる権力への服従という姿勢は人生において煩わしさを減らす為の智慧なのだと思う。それは自然が持っている権力から一国の交通ルールの取り締まりまで、まさにありとあらゆる権力だ。周囲で行われるガスライティングも効いている様に思わせておく方が良い。蚊は吸血行為を氣づかれたくないという思いだけであって、痒くさせて不快な思いをさせてやろうとは本来考えていない(はず)。はっきりとわかっていることは「子孫を残すための栄養素として必要だから」ということだ。中には不快な思いをさせることに歓びを感じるような蚊もいるのかもしれない。しかしどちらにせよその吸血行為そのものに変わりはないと思われる。「あなたのそれ、効いてるよ。感じているよ。」と、フリだとわかっていても上手く反応すれば相手は喜ぶのだそうだ。しかし、グレーな僕には残念ながらその素質があまり無いということだ。今朝の蚊はどのような思いで僕の小指を刺したのだろうか。まあ、反応を見て楽しむタイプの蚊ではなさそうだとは思うのだけれど。